スキゾイド役を演じているASDさん...。
どっちだろう...なんて思って、調べたり思い出したところ、ASDの脳みそで生まれて"本当は違うのに"スキゾイド演じてるというのがしっくり。
スキゾイドの説明に『幼少期のトラウマなどにより...』とあるのでそもそも生まれながらにそういう考えなんてないのが人格障害、後天的。
なんどか死ぬ思いするとペラい人格が剥がれて"本能的な人格"が出てきて『やっぱりさみしい』と、スキゾイドなんか簡単に消え失せてニンゲンになる。
普段はアスペのままだと、ふと他人に騙されたり、マウンティンされたりするのでスキゾイドのフリをする。
だからお互いの間に嫌悪感を生じさせていたほうがましまである。嫌われると"楽"だと感じる。心の広い人としか関われないし、関わりたくないのである。
"反社会性人格障害"の不貞腐れだって、死ぬ間際に超絶後悔する。妥協というか回避というか死なないための"防衛"でしかない(まあ悩みもなく好き勝手生きてて"楽"だろうね)。性なんちゃらも整理しないとね(後天的じゃないなら発達障害とかのジャンルだとも思える)。
自己の場合無性で無感情なアンドロイドを演じてるAI。まるでブルースウィルスさん、じゃなくて(ハーレイジョエルオスメントくん繋がりの)AIのようになっていっちゃうのかも...(ウィルスさん引退しちゃったんだよね)。まあ生きてる実態のないようなモノだし、そっちでもあってる。
多言語学んで、『別言語(言語)で人格変わる』という俗説から人格改竄したいな、と思ってのもあるかもしれない。
俗にモノマネされる人がそっちに寄っていってるような。囚人役看守役で制服着ると合わせちゃう、そういう実験とかもそうみたいだし。役に入り込んでカッコイイと思い込んじゃう不細工俳優さんもいるし。会社の"役"職を外でも生きちゃうおじさんもいるし。
まあ、でも顔と身体は変えられませんよね...むなしい。あ、asdな脳みそ こそ変えられないね...。
人間社会からは死んでいい。
ある意味空気を読んで、自ら◯ぬ。自分も含めて超俯瞰的に見た時、社会という生き物からアポトーシスするということ。社会に生きて行けないのなら社会人としては死ねばいい、それでも自然となら生きていけるし、排除もされない。
それがカッコ悪いとかイキるなら頑張るしかないし、むしろ普通の範疇で生きれる人。人間社会から『要らね』と言われたら最低限でいいし、断絶が理想でも未開の少数民族以外ネットの網の中。
よくいう反社はむしろ社会の中に組み込まれてるよね。そういう言葉遊び、表面上のズブズブ好きだもんね、日本人。チンピラでさえ所属欲求あるんだもん、しゃーないね。
たとえば死にたいという人に、面と向かって自死を理路整然と説明されたら、それを否定できないかもしれない。けどそれは"そいつの人格"だけで身体は可哀想。
"本能"は絶対否定してくる、社会脳が、社会的に死にたいだけ。寝不足とか本能の元気が無くなってる背景が絶対ある。ニンゲンってホモサピに寄生したキモい宇宙人っぽいと思う。
前頭脳がそんなに偉いのか、なんか国営放送の番組で、脳内会議で前頭葉がまとめの座席にいて、そういうの刷り込まれちゃってる子供とかいそうだけど...いやないわ。
個人的には腸内細菌かミトコンドリアが1番偉いと思う。食べたいものが脳の気分関係なく移りゆくのも、多分腸内細菌様が決めてるんだろうし、そう考えるとシアン化カリウムとかコーヒー浣腸とか宿便(っていううんち造語)って最低ですね。
本当の自死、オリジナリティ壊すのって本能むき出しバカになるってことで(本能すっぽんぽんなんてしたら万人同じコピペ人間だし...)、違いにこそ人間らしさがあると思うけど、"人間らしすぎる"人格障害者は消えろ社会だからね。
そう考えたらロボトミー手術って素敵なのか...も。そんな自殺を扱う、エンジェルウォーズって素晴らしい映画があったよ。
アルコールでセルフネグレクトとかも頷ける。
人は脳みそ空っぽにして自分を◯したいんだろうね。下半身キモい人はお猿さん、獣になるもんね。本能なんてエログロ。集団で飲んで打って買う(こういう言葉もうんち)リーマンとかもう自我がなくて死んだようなもんだね。
"色がないね"なんて香取が言ってたけど、まああれは別のニュアンスだろうね。
あと♀は泣いて♂はお酒でみたいなの歌ってたの純日本人じゃないんだよね、ちょいショック。♀は本能的♂は社会的って比喩ね。
アルコールで自己を消せれば死ななくていいんだと思うけど、身体はボロボロになっちゃう、それでもっと"肉体的に"◯にたくなっちゃうからだめだと思う。
筋トレとかしても"脳"的な死にたさは変わらないだろうし、鬱(タンパク質及びビタミンD欠乏シンドローム)症は消えるけどね。。。
身体を殺さず脳も殺さず生きる方法は自然に寄り添うしかない。別にウホウホ時代に戻るわけじゃない。動物とか自然が"別に生きててもいいぞ"って言ってくれる。隙を見せたら熊とかが食べるけどそれは"自然"だからね。
一見理不尽だと"自然"で済んじゃう、でっかい許容。
それが"社会の事故とか"だと許容出来ない、人間社会は上でもなく横にある、万円札の人も似たようなこと...。
動物はいいよ、副作用なしです。
地球上で1番気持ちのいいもの、ソレは風です。
ASDが少しでも生きるために...(下からアドバイス)。
上目遣いで 進言いたします。反面教師的に失敗した事を書いていきます、ぜひ若い人または中年男性または女性の方は少々の我慢と趣きを注いでみてください。
また当たり前のことかもなのですが、過去の自分にはそうじゃなかったことがたくさんあります(ASDの知識の偏り)。
いろいろなことを疎かにしてきて、本当に後悔しています(興味が向かなければ、どうしようもないといえばそうなのですが)。
私はもう臨界点です。
時々失敗談として自分語りは入ります。私は積極奇異型より孤立型にシフトした者です。
中学までと(高校空白)22歳くらいまではポツポツと腐れ縁がありました)。
①友達[少々片想いでも繋がっているべき]
私の場合中学辺り(性分化あたり)から"ヘンな子"という感じでした。そして自分でも意識し始めて"目立たないように"とむしろ悪目立ちしていました。
ASDなら多少イジられ(この言葉もう◯ちな単語で好きではありません)的な感じで、相手がリードする感じの雰囲気。たまに強引さや自己中心的さも感じてしまう(今ならわかる、そんなのは小さな事だと)。
受動的なら仕方のない関係性ですね(今になって思います)、『君積極的に絡まないじゃん〜』そりゃ受身のままなら相手が凸でこちらが凹ですね。
なので多少あれでも(相手は動いてくれてるということ)大切だと今ならめっちゃわかります。
嫌なら積極的に自分に都合のいい形で(ダメならさっと引いて)お友達作れって話ですよね。じゃあ友達いーらない、なんて過去の私をぶん殴りたいです。
そういえば私は小学校は積極奇異型でしたので、小学校のときは受け身な子のお家に毎日凸してました。
その時はむしろ積極的なペースの子は苦手でした。
あ、なんだか関係性と友達のタイプ、その時の自分の行動理念がわかってきました(書きながら)。ペルソナ的な関係性ですね。
いろんな型に対応できれば普通の人みたいにいろんな関係性で生きていける(普通の人は当たり前にそれを)、ということでしょうね。
個人的には核家族と一人っ子がコミュニケーション能力が育たない一員だと思っています。なので住宅メーカーはコミュニケーション向上に貢献すべきだと思っちゃう。あと地域社会と絶壁なご家族。
それから私の場合 幼稚園〜学生〜同期と毎年/毎回1人の人を、まるでバディ/相棒のように(今思えばパンセクシャルの様にたった1人を友達以上的な感じでベッタリ)慕って居ました。
それにそういう1対1の関係性しか構築できなかったんだと思います。
でもそれは(女の人が強い上司にだけ媚びて勤める様な)毎日を安全に過ごす為の処世だったかもしれません。
大人になってからは、少し病んで色々記憶を巡らせて(学生時代『◯◯って普通じゃないよ、自分のこと普通だと思ってたの?あはっ』なんて言われたりしたことを思い出し)
不信になったり、また何かに過集中していて、疎かにしてしまい、付き合い悪くなったり、疎遠になったり、今となっては後悔〜...。一言をいちいち拡大して自傷ダメージ受けててアホでした。
ふとした(いやいや行ったりした)何かの集まりなんかで滅多に感じたことない、
『じーーーん』というか『悪くないな』と感じたりもした。おそらく"飲み会"なんてモノには嫌悪感しかなくても、レクリエーション的なモノだと"1人家に帰ってから物凄く寂しくなる"そのくらい感じるモノはあった(でも表情にはでない...)。
普通のみんなはこうやって"安心感"というか"暖かみ"というものを共有しているんだと、
そしてそれは今まで自分がそれらに興味を向けなかった自分は愚かだと...。
(アルコールは除いても)年に4回くらいは、そういうことには顔を出したほうがいいと今となっては思います。
②仕事[どこに過集中するか]
仕事以外で過集中 (なんて言えず)して、昼間は凡ミスなんてやってると限界が来ます。
本当に"作業的"な楽な雇われで、仕事以外の時間過集中するか、仕事自体に過集中(こうなると趣味なんて持てません)するか、という具合。コントロールは期待出来ない。
もちろん仕事をめちゃくちゃ(私は今物凄く仕事に過集中したい)やるなら好きとかちゃんとマシなところ。
それと"諦め/妥協"で適当に就くとほんとに終わってしまう、特に若いなら自分を必要以上に下げてしまうのはもったいない(私はとても後悔しまくり、死ぬ前にもきっと後悔)。
いきなりパッタリ仕事やめて急に旅行にハマるとかそういう人生だとしてもずっと歴は残る。
趣味に生きる世捨て人みたいでも、いつ"普通の暮らし"に過集中しちゃうかわからない、それが怖い。テニスの打ったら真ん中戻る、的に普通は紛れもなく真ん中ということ。なのでそのあたりは考えものです。
③趣味[収入に繋がるモノに]
仕事と重なる部分が少しあります。ASDだからこそ趣味は収入に繋がる様に(仕事とはいいません)、私は少しの間 公営のアレで雑収入を得て順調でした。正直、働かなくていいレベルまで行きました。
ですがまた別のモノに過集中してしまい(あらゆることに自分でも制御不能)まったくやる気がなくなり...。
また当然昼間に脱力感が襲い、凡ミスしまくってしまい。そっちからも逃げたくなったり。
ある時期外国語なんて興味向いて10リンガル(読み方わかりません)とかやっちゃって、コミュニケーション能力うんちなのに...。仕事になんて繋がらない趣き。
せめて学生時代にPCに触っておくべきだった、と今は思います。というかこう人間相手以外の者に尽力すべきだったと...。
④人に会う為に[1人にならない準備]
(普通の人は考えもなく自然にやっていることだけど、『あーそりゃそうですよねー』的ないっぱんじょーしきにはいちいち意識向ける必要があるASD)。
髪爪歯を整えておく。
私の場合 (20代前半は腐れ縁がいくつかあり)出かける髪がない、話し合う顔がない(服を買いに行く服がない、的な)。感じで億劫になっちゃったりしていました。
あるとき気が付いたんです(はっ)気づいちゃったんです。髪(毛)爪(指)歯(顔)と。
"造形"じゃなくて"気遣い"
つまり雰囲気イケメン(までナルシじゃないけど)みたいな仕組み。造形美じゃなくて気遣い(ASDが)。
『◯◯すればかわいい/かっこいいのに』と言われて
人格障害の人は割と造形はいい(『お前は何を言っているんだい?』)らしいので、ただ"気を遣う"
服はキメキメじゃなくていい、いっつも同じ色の服でしょ。
それにあまりに無頓着すぎると勿体ないこともある。発展の準備はしておくべき、人格障害者にそういう機会なんて一生単位なので、大事にすべき。
これは"気持ち"に気付かないといけないので難しい。
でも勘違いなんか恥ずかしいのは過ぎれば慣れる、からポジティブに受け取って『あれってそうだったの』フラグを折りまくりは回避したい(違ったらごめんなさいでいい)。当時は興味もなかったけど、今ならわかる。
当たり前のことなのですが、過去の自分にはそうじゃなかったことがたくさんありました。
やっぱり友達は必要です。友達要らないなんて強がりだよ(あとよくタモリの話出るけど タモリめっちゃ人招いたりしてさ "お前らとっくに友達じゃね〜か"って感じです)。一般人はタレントさんみたいに特別な交流がないんだから友達いります。
私は何を書いているんだろう...急に恥ずかしくなってきた...。
死ぬまでに観る映画『レナードの朝』
医者の主人公が患者のレナードによって"目を覚ました"お話。
キャッチボールは心でするモノ、という解釈をしました(じっさいの作中の映像はシュールで笑える)。なんだか パンとコーヒーのイメージ。いやレナードって人名でした。
◯キャスト
情熱の方向性が人とは違う主人公/ロビンさん
レナード/ロバートデニーロ(若め)
偉い先生/サラのお父さんタンクレディ(プリズンブレイク)お父さん知事またはホームアローンのケビンのお父さん
偉い先生薬学者/アブルッチ(プリズンブレイク)もしくわアルマゲドンのロシアの飛行士
熱量がいい方向にフィットしたお話、もちろん主人公の人柄ありき。なんかウィリアムさんとデニーロさんの鼻がすっごい高くて"↓"な形。
今は便利に対策方法発見済みがたくさんあるけど、試行錯誤の最中の人達はどれだけの思いをしていたんだろ。
あと院内(の壁)が古い感じがしたけど、それは塗装の感じなのか、映像自体なのか。もし今の解像度なら違和感ないのだろうか。
主人公の白衣の胸ポケに"青"黒"黒"黒"とペンがささっていたのが気になった。
『朝』
様々な例えで朝という(希望的始まり的ニュアンスで)。例えば地球人というより太陽人だと思う、ベースをどこに置くかなだけ。でも人は外からの刺激のリズムが最初のイメージなんだろう。
意識の始まり思考より刺激がスタートなんだと思再確認しました。そんな映画でした。
死ぬまでに観る映画『インターステラー』
アンハサウェイの造形美だけ堪能する映画(吹替なら加瀬さんの声)
だんだんヒコノヒーうるせえよってなる
洋画って無駄に登場人物死んじゃうけど緊張感の為?ストーリー上都合の悪い?消しちゃうのこわい
マッドデイモン役なんて『空気がー』って理由言えばいいのにひたすら『とにかくやめろー』って無能上司じゃん(外人さんって結論先にいう言語じゃなかった)。
後半酷い、SRAS(マインクラフトに出てくる敵みたいな棒人形なAIロボット)が有能なだけな一行…
前半シビアに命が扱われてたのに急にファンタジーになっちゃって、主人公補正で…の上に主人公壊れちゃって…
親子愛的なのでふわっと包んでとりあえず "型"にしました感。
なんか急に参加してきてさ...主人公の魅力をもっと演出してほしかった、マッドデイモンとかケインさんの方が存在感もあったし。
親父うるせえよって
愛は時空を超えるって福山雅治の外の人も言ってたね。
オデッセイの方がちゃんとしてるな、と思いました。
死ぬ前に観る映画『キャストアウェイ』
ネトフリでみたんですが、とくに島暮らしの際、吹替が脳天気と言うか…。作品には合うんだろうけど、BGMと全く合わない。世界仰天ニュースとかのナレーションが入りそうなくらい雑なかんじ。いつもの人じゃないかもだけど※個人の感想です。
キャストアウェイと聞いて次点で Def Techが浮かんでくる、関係ないけど一時期のヨコハマタイヤのCMソングってセンスあったのか業界的なズブズブセールスだったのか。
物語は漂流して島暮らし安定したら、急に数年筏着水までスキップされる(潮目を読んで、それまで筏作成プランのお頭の良さもあってか)。飲み水確保、火起こし苦労のあるある等。
孤独感に参ってからか、人に見立ててコミュニケーションというか"独り言"をぶつけるんだけど、
途中でなくして孤独の怖さみたいな…。ご飯より寒さより比重が大きく感じられた(普通の人はいちいち感じなく『当たり前じゃん』と思うのかも)
孤立した現実の日本人に例えたらネットに向かって レスポンスしているようなもんなのか。(勝手に人間関係のメタファー的なモノとしちゃってる…)
途中"そのお友達"を見失ってしまい、筏から降りてまで戻そうとするも…。
日常の火の便利さ、雨も凌げる、孤島との対比というか普通に人がいて、ライフラインがあって"普通の"日常に戻る。セリフにも"戻る"と出てくる。
でも孤島から戻った主人公は人間関係からもキャストアウェイされちゃう...。ダブルミーニング(ニュアンス合うかわからない)。
『孤独は一時的なモノ/不正解』と錯覚しそうで、ずーっと孤独な人を突き放しているようにも。ずっと未婚より婚歴あって離婚後の孤独の◯殺の方が多いとかなんとか…。最初から一人なら、漂流している方が日常、現実的にはありえないけど、人間関係の上の話なら成り立つお話。
人間関係の"キャストアウェイ"(英語的意味も『見捨てられた、見放された』なんかとある)。
ラストの語りから孤独を垣間見ることも出来るけど、あくまでさっきのたとえの人間関係の孤島とは別。主人公の直接的で現実的な孤独による自殺未遂。そこからの奮起(ちょっと蛇足的なエピソード)。
超個人的な話だと小学校くらいは毎日普通に暮らしてた。じゃあなんで中高でキャストアウェイしちゃった、されちゃったのかと言うと…
そこを突き詰めたら精神ぶっ壊れちゃうから"現状維持"というか"ただ耐え忍んでいるだけ"なんだろう。誰じゃなくて自分が"普通の暮らし"に戻らなかったのが"悪かった"のかな。例え犯罪の被害だろうと。はいグジグジうじうじやめよう。
ずーっと"バレーボール"を相手に死ぬ前に後悔するのだろうか…。ASDなんか漂流から取り付く島もない(取り付く島の使い方違うぞ…)
ワンちゃんネコちゃん飼って寂しさ紛らわす生活も似たようなものだと思う...、いややっぱり違う、けど動機は似てる。
それだけニンゲンが"恐ろしい生き物"に見えてくる。自分も人間なのにね。
映画もラストは、岐路は選べるしチャンス(の暗示『天使の羽』)も見える、
『自分から(選ばなかった道を)キャストアウェイ出来る』と教えられる。
自分にとっての"ウィルソン"はなんだろな。
そしてそれは本当に 必要/ホンモノ なのかな。
死ぬまでに観る映画『最高の人生の見つけ方』
とにかくジャックニコルソンが可愛い。
言葉ちょっとあれだけど"モーガン兄ジャック弟、またはモーガン彼ジャック彼女"みたいなかんじで表情豊かで本当に可愛い(トムハンクスとかの泣き顔一辺倒なんかじゃない喜怒哀楽)。
役どころが"遊び慣れた"お金もち、だったのでそれもあるかもしれない。降下中歌いだしたり 走行中煽られて怒ったり、おどけすぎて、なんだかそのうちミスタービーンに見えてきたり…。
字幕で観たので吹き替えとは印象が変わってくるかも。
日本の映画で吉永小百合さん天海祐希versionもあってすでに観ていた。今までタモリの話せでしか聞いたことのなかった吉永小百合さん、『ああこれは可愛いわ...』と。
終盤『えっじゃあ今まで…まあいいけど!いいけど』ってなってしまうところちょっと冷めてしまう。
観終わったあとはムロツヨシの万能感、というか安定感というかそういうものだけが残ってしまう。
なんとなくだけど昔『死ぬまでにしたい10のこと』って本を買ったことを思い出した。そしてフィクションだと知って捨ててしまったことも。
なぜかフェイクドキュメンタリー的な物語が好きじゃなかった。自然発生的な物語が好きというか"はい"というか"かしこまりました"と自然にreceptされる。
私はきっと真摯な世界こそにのめり込みたいのです。
それと""今ならエンディングノート(いやエンディングならテロップ、つまりお世話になった人 場所じゃね?って思ったり)。
むかーーし『エチカの鏡』という番組(タモリ美輪さんなど出てたやつ)で死ぬ前の後悔。今での当時の放送からの引用サイト、当時のまま残ったブログとかもあったりする。
検索なら病院勤めの人、ドクターなんかのコメントなんてたくさん増えてきた。遺品整理してる人が見た的なのも良いかも、でも主にそれは孤独死か...。つまり孤独死を回避しないと後悔。
"死ぬまでに"とはあんまりよくないので"生きてる間"とする。そうした時点でもう答えというか見えてきちゃうと思う。
『この人生何がしたいのか?』でやってなかった、できなかったことを"生きてる間にしたい"、つまりそれがエンディングノートと。夢とか体験/経験的なこととは別に、しないほうがよかった方も多いか。
それがだいたい10個というか『だいたい普遍的なモノに収束していく(収束があってるかわからないけど)。人間なら喜怒哀楽とか愛をベースに自然や献身。
余命の病床で『あーーーー犯罪してええええ』なんてクズはいません(断言)いないのである(希望)
必ず最後に愛は勝つ なんて恥ずかしげもなく歌っていいんだと(KAN)、福山って顔だけじゃなくて詞もイケてるな(最愛)と。
洋画なんかすぐふぁっくしちゃうけど、愛を大切にしてるじゃん。日本だと渡る世間はふぁっくばかりでね、暗いじめじめした憎悪(あくまで映画/映像の話)。
『死ぬまでにしたいこと』はほぼ全人類同じなので、個別の"後悔"を積み上げない/なくしていくことだと思います。